KOMA NOTE

”軽やかにシンプルに生きていく”考え方や実践をフリーランスの人材育成クリエイターがつづります。

それでええねん。

迷ったり、悩んだりした時、いつも僕の頭の中にはこの名曲が鳴り出すのです。

子育ても、しごともまた然り。

 


ウルフルズ - ええねん ROCK IN JAPAN FES.2007 2/2


ええねん



たぶん今を生きる僕らの「正解」というものは、子どもたちが大人になった時には、、、

 

おそらく大抵はズレちゃっているのだと思う。だから、たった一つの正解を必死になって探す必要はないし、その価値観にしがみつかなくてもいい。

正しいか、よりも楽しいか。共に笑い合うことを大切にしたらどうだろう。

そのスイッチが、「それでええねん」。

 

そういえば、かのバカボンも言ってましたね。

 

「それでいいのだ!」と。

 

お金の正体。

僕には独立してから続けている1つの習慣がある。それは、毎月月末の夕食時、子供たちのいる前で、お金の入った封筒を妻に手渡すというささやかな儀式。そして夕食を頂きながら、すこ〜しだけお金のはなしを子供たちとする。

・お金ってどんなもの?

・どうやってお金をもらうのか?

・お金はどうやって使うのか?

・いったい我が家にお金はいくらあるのか?(今は言わないけど)

そんなことを。

 

なぜ、いまどき手渡しという昭和的で、面倒くさいことを始めたのか。パパありがとう!と言われ、自尊心を満たしたいというのもあるが、それ以上に「ある原体験」に理由がある。

それは僕が独立したての8月の暑い月末。ある仕事をご祝儀的に頂き、報酬として5万円を頂いた。記念として今までロクにしたこともない預金通帳への記帳をしようと、自転車で駅前の銀行に向かった。月末のATMは長蛇の列。しばし並んでようやくATMの前で記帳を始めた瞬間に事件は起こる。

 

僕は記帳される音を聞きながら、涙ぐんでしまったのだ。その音はわずか”ジッ”という一瞬だった。そりゃそうだ。たった1件だけだから。月末のATMで引き出した5万円を握りしめ、通帳を見つめながら涙する38歳のおっさん(当時)。

 

ある仕事を頼まれ、一生懸命期待に応え、ありがとう、という感謝のカタチとしてお金を頂く。純粋にうれしかったのだ。こんな当たり前で大切なことを、僕は分かったつもりでいた。しかしどこかに忘れていたのだ。ジッという音の中に、自分の手で稼げた実感やお客様の役に立てた嬉しさや感謝の気持ちが詰まっていた。

 

上場企業でそこそこのお給料を頂いていた時には僕になかった「お金」の見え方。月末になると当たり前のように振り込まれ、引き出して使う。もっと給料増えないかなと思ったり、今月末はピンチ!もっと上司の評価を得るには・・などとありふれた日常にあった「お金」のほんとうの正体に気づけた瞬間だった。

 

今はありがたいことに記帳の音は当時より長くなった。そしてジジジッという音は今でも僕をきほんに立ち返らせてくれる。だから毎月必ず記帳している。そして、僕の原体験を子供たちとシェアし続けたいと思っている。

 

会社の売り上げが伸びない、営業成績が伸びない、給料が安いといった不満や悩み。もし僕だったらこんなシンプルなアドバイスをしてみたい。

「一度お給料をすべて引き出して、自分の手に持ってジーッと見つめてみよう。」そして自分の頭で考えてみよう、このお金たちの正体というものを。そこにしごとの大切なきほん、結果を変えるための行動のヒントが透けて見えてくるはずだから。

 

*****

今月もお疲れ様でした。今日は月末、我が家ではお金の話しをすこしだけする日です。あなたの話題ももしかしたら出るかもしれません。感謝しています。

 

 

 

つながる力。

(たぶん、あなたはこのブログの存在なんて知らないと思うけど)

「つながりましょう」。僕がもっとも伝えたかったのは、この一言だ。

いま世の中は、みんなの価値観もバラバラで、すぐ変化していくし、ますます複雑さを増していく。だから、仕事においてもくらしにおいても、困ったことの解決や何かを新しく始めたい時に、自分ひとりだけで解決できることは極めて少ないはず。1つの正解があればいいけど、ないでしょ?

 

例えば、僕がいま直面している子育てにだって、1つの正解なんてない。だから妻と話し合って、正解ではなく、納得できる解を紡ぎだそうと日々努力している。不断のブレストです。

 

どんどん、人とつながろう。必要なのは、つながる際のちょっとした声かけとアホな答えを言える勇気だけ(笑)。最善策はたぶん、となりの人がもっている。脳と脳がつながると、一気にアイデアの数が増えたり、ひとりじゃ絶対に思いつかない視点が目の前に現れたよね。スパイラル状に楽しくなっていく、あの感覚です。

 

忘れがちだけど、あなたも僕も決してひとりじゃないのです。そして、”生きた答え”はあなたやチームの仲間がたくさんもっていることを忘れないでね。

 

今週はみなさんの素敵な笑顔とパワフルさにたくさん元気を頂きました。来月にまたお会いできるのを、心から楽しみにしています。

 

 

折り返し地点。

たまたま観た昨日のガイアの夜明けでは「人生100年時代の働き方」がテーマでした。100年ですよ、人一人の人生が1世紀という時間軸で考えなきゃいけない世界初の国。今時点で男子も女子も平均寿命は80歳を超えています。(ちなみに江戸時代は30〜40歳といわれています)

 

あなたは人生の折り返し地点って何歳ぐらいだと思いますか?

僕は今まで40歳と思っていました。だから、40手前でサラリーマンという生き方を卒業し、自営業に転身しました。40歳まではいろいろな方々から「頂く人生」として。40歳からは様々な方々に「与える人生」へ。

でもね、100年を想定するのが現代なんだそうです。なんなら今の子供達が大人になった時には120歳ぐらい当たり前になっているかも。まだなんとなく65歳で定年を迎えて・・・なんて思ってませんか?ちょっとその幻想を振り払う必要がありそうです。仮に65歳で会社人生を卒業したとしても、その後35年間どう生きますか?私はまったくイメージがありません。正解のない時代と言われますが、まさにこういうことなのでしょう。

 

僕は明日、43歳の誕生日を迎えます。そして、人生の折り返し地点を40歳→50歳に修正します。まずは50歳までのあと7年間、がむしゃらに楽しく階段を登ろうと思っています。(なので、まだまだ色々な方々から頂きます、笑)この7年間で折り返し以降のライフワークについても基礎を作っていこうと思います。ひとつ言えるのは、これからは富士山のように、人生ひと山という生き方ではなく、ふた山、み山という生き方へのシフトが必要になってきている、それが100年人生の山脈的な歩き方(生き方)なのだと思います。

 

先日私の大好きなお客様の一人からのメールに、こんな一行がありました。

「こまごめさん、もっと営業すれば(攻めて)いいのに。」ありがとうございます。遠慮なくむちゃくちゃたのしい企画を提案しますよ!

 

いつ人生の幕が下りてもいいように、この1年も毎日を笑顔で楽しんで過ごしたいと思います。

 

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妻が予約をしてくれた北新地の「Salon du Kuma3 」にてランチ。
久しぶりに二人でゆっくり会話ができました。最高のプレゼントでした。

 

 

自己嫌悪というスイッチ。

人材開発の仕事をするプロとして、こんな内容はあまりおおっぴらに言っちゃいけないことなのかもしれない。でも、もしかしたらいつか、あなたの参考になるかもしれない。そう感じたので、記そうと思う。

 

「自己嫌悪になったことってありますか?」

僕は40数年生きてきた中で、何度か強烈な自己嫌悪に陥った時期がある。実はここ最近がそうだった。久々にそれはやってきた。疲れが抜けなくて体調がすぐれないという状態でもあったが、妙にイライラし、子供に腹を立てたり、妻と言い合いをしてしまうことがあった。ついには先日の朝、あることでカッとなり小1になったばかりの長男の胸ぐらを掴んで、声を荒げて言い聞かせた。その勢いで長男の胸に爪が引っかかって傷をつけてしまった。しかしその場では自分を正当化し、子供に説教した。

 

その日は休日であったが、僕は腹の底から自己嫌悪の1日だった。長男はケロッとしていつもどうり、公園で一緒に遊んだり、ご飯を食べた。いつもの休日の過ごし方だった。でも僕の心の中は、ざわついたままだった。

夜になり、僕は眠れなくて家族が寝静まった深夜にひとり、ノートにモヤモヤな心情を吐き出すことをした。いつもセミナー参加者にお伝えするあのやり方だ。しかし、いつもと違いなかなかペンが進まなかった。ようやくつらつら感情の断片を書き出しながら、頭が整理されてきたのは次のようなことだった。

 

・親は子供に対して、威張って怒ってどなってもいい?

・親はえらいものだ。子供は親の言うことを聞くものだ。親が口うるさく言わなければ、この子は育たない?

・私がこの子に教え込まないと、この子はまともな子にならない?

 

 

・・・違う。僕は完全に間違っている。

 

本当は、親が子供を育てているのではなくて、この子から親が育てていただいているのだ。

 

この子が何をしても、どんな状態でも親が絶対に腹を立てない、怒らない、声を荒げない、苛つかない、という人格を身につけるために、この子がいる。言ってみればその訓練のためにこの子は我が夫婦のもとにきてくれたのではないか。そんな内なる声が聞こえてきたのです。

子供に怒鳴ってもいい、イライラしてもいいと思っていたのは、親である僕の完全なる思い込みであり、勘違い。ただ自分が未熟なだけ。そこを自己正当化しちゃいけないのだ。それは僕の弱さに過ぎない。その弱さの上で教育論、理想論、観念論を子供に教え込む(むしろ押し付ける)という方法論は全く役に立たず、意味がない。この子が言うことを聞き動いた時というのを振り返れば、その子自身に私が喜んだ時、感謝した時、誉めた時に限っていたはず。怒りで動かしたことが長続きした試しはない。そうだそうだった、と大切なことが次々浮かんできた。

 

「自己嫌悪というスイッチ」は、カンタンに自分の生き方を変えてくれる。

これまでもそうだった。自己嫌悪とはすっかり忘れていた大切なことを教えてくれるメッセンジャーのような存在だ。僕はこの日の深夜に心に決め、ノートに書いた。

「今後子供に対してどんなときでも怒らない、いばらない、怒鳴らない、声を荒げない」ということを。もしこの実践を24時間、365日できるようになったら・・・こんな人をたぶん人格者と呼ぶのだろう。そして、そんな親に対応するような子供になるのだろう。僕はまだまだ未熟者だ。だから僕自身がもっと成長しようと思う。

先人が言ってきたように、きっと親はいなくても子は育つのだろう。もしかしたらこの子の人格形成にとって親の存在というのは実はあまり関係ないのかもしれない。それぐらいの考え方で、ひたすら「実践者の父」になってやろうと思う。

 

自己嫌悪というスイッチがカチっと入ると、あとは勝手に心地よい方向に行くものだ。なぜなら行動の選択が自然と変わるから。

僕は次の日、我が子の登校に途中まで一緒に歩きながら、傷つけたことを謝った。そして、「パパはあの日、自分のことがすごく嫌いになったんだ」と正直に打ち明け、昨夜思ったことや決意したことを息子に話してみた。息子は、ぽか〜んと黙って聞いていた。特に言葉はなかった(心なしか表情が明るくなったように思えたけど)。

 

たぶんいいのだ、これで。

目標を思いっきり下げてみよう。

いきなりですが、あなたは「目標設定」と聞いてどんな気持ちになりますか?

 

ワクワクする、楽しい、よっしゃー!、とか前向きな気持ち、ポジティブな感情になりますか?それとも胃が「ウッ」とくるような嫌な感じ、苦しい感じがしますか?

僕は企業で働く人たちの成長を下支えする仕事を、会社員時代も含めると、かれこれ15年間やってきた中で、世の中圧倒的に後者が多いことを知っています。

例えば、研修やセミナーで「目標設定ってダイジ」なんて話をしだすと、明らかに表情が硬くなり、目線を下げる方々とたくさんお会いしてきました。ちなみに今僕が下支えをしている方々はどちらかと言えば、むしろそういう人たちです。会社員というのは、言ってみれば目標に囲まれて生きています。言い換えれば、業務上成し遂げなければならない高い高い数字を達成するために、日々僕らは苦悩しているようなもの。

しかし、もしあなたが成長したいと思っているなら(思っているとわかっているから書いているのですが)月並みですが、目標設定は出発点であり、外すことはできません。

僕も会社員時代を思い出すと、ホンネを言えば「目標」ってイヤな奴でした。なぜイヤだったか、今は分かります。理由は2つあります。

1つ目、ほぼ他人が決めるから。見せかけ自分で決めたように仕向けることもありますが、その大元となる目標は当然他者が決めています。「じゃあコミットな!」とか笑顔で言われても・・・と納得感が生じにくかった経験ありませんか。

2つ目、ここが今日一番言いたいことなのですが、「そのハードル、高すぎません?」なのです。

 

多くの先人たちが唱えてきた目標設定の技術というものは、「高いハードルを掲げよう!そうすれば自分の能力や知恵を引き出せる」。それが当たり前のこととして流布されてきたようです。たしかにたしかに、です。しかし、僕の経験から言えるのは、高すぎる目標は簡単に人の成長意欲を下げることが可能です。今の自分の心の具合、発揮している能力に合わせて「そのハードルだとやる気が削がれるな」と感じたら、正直に高すぎるのです。高すぎる目標に白けてしまっている自分がいたりしませんか。もちろん自分のコンディションによっては、ハードルをあえて上げた方が意欲が高まることだってあることも事実です。

従来の目標設定の考え方と逆説的になりますが、そういうハイな自分に至るまでは、変なプライドを捨てて、こう言いたいのです。

「その目標を思い切って下げてみませんか?」

 

目標といえないくらい低いレベルのことを目標にするのです。すぐ達成できてしまうこと。例えば、今月は1000万の売上を創出する、と目標におかれても構わないのですが、同時に「今日の午前中、1件顧客訪問する」「1件電話でアポを取る」「アポを取るリストを10時までに用意する」という小さくてすぐできてしまう目標も立てるのです。そしてすぐ達成する。「できた!」を積み重ねるのです。「できた」の積み重ねが成長意欲を高めていきますから。大事なことは自分の意欲をコツコツ育んでいくこと。そのツールとして目標はうまくコントロールしていくことなのです。うまくというのは、ガツんと下げることです。こういったことは人を育てるのが上手な上司は自然とやっています。しかし残念ながら極めて少ないと感じています。

 

僕は会社員時代、見栄とプライドが邪魔して高い目標を立て、挫折する繰り返しでした。低い目標を立てると周囲から「できない奴」「志低っ!」と思われるのでは、といつも無理していたのです。だから目標設定とは自分にウソをつく作業でしかなかったのです。他人にウソをつけば信頼を失いますよね。では自分にウソを重ねるとどうなりますか、自分自身を信じられなくなってくるものです。でもそういうものだと思い込んでいたのです。辛かった・・・。

でも独立した際に、白紙のノートに向かって目標を自由に描いた時感じたのです。誰からも与えられないで目標を自分で決めることの楽しさやワクワク感を。いちいちコミットなんていう必要もない。目標って決してイヤな奴ではなかったのですね。自分次第だったわけです。

 

もちろん組織にはミッションがあります。目標は降ってくるでしょう。それは組織の一員として誠実に受け止めていきましょう。しかし多くの人はその大きなボールをそのままにしています。だから達成できる気がしなくなってくるものです。ハードルをガクンと下げた今日の目標は自分で決められます。いつも言うように頭の中で浮かべるのではなく、紙に文字で書きましょう。それならできるはずだから。そして「できた」をコツコツ積み上げていきましょう。

 

どうでもいいことですが、最近の僕はなぜか「蕎麦」が食べたくてたまりません。今日は食べログで調べ、あるおいしい評判の蕎麦屋さんに行くことにしました。数時間後、僕にも新たな「できた」がつくられていることでしょう。その意欲と自信をもって顧客先のコンサルティング企画を仕上げようと思います。

 

あなたのどうでもいい(笑)「できた。」今度教えてくださいね。

 

 

 

 

ダイバーシティを語る前に。

僕はタクシーを即座に使う。割と時間をお金で買う。しかし妻からするともったいないからバスや電車、なんなら自転車を使う。僕は買い物をする際に比較せず、いいなと思ったその場で即決する。しかし妻がいると大抵ストップがかかる。彼女は1円でも安いところを探すマメなことを厭わない。かつては子供が熱を出した時、薬を飲ませるタイミングでいつも妻とはぶつかっていた。以上はたまたま思いついた例だが、価値観の違いは枚挙にいとまがない。価値観とは、「自分にとって当たり前は何か」ということ。

 

近頃、ダイバーシティについて意見を求められることが増えてきた。相手は一体何を聞きたいんだろうか、と想像を巡らしながらも、ダイバーシティについて僕はこんな手渡し方をする。

 

それは「人を嫌いにならないこと」です、と。

どんな人でも受け入れる心を持ちましょう、心を広く、ね。これは現時点での僕の定義だ。

 

もしも言葉の意味や知識を得たいだけなら、ネットで済む。あるいは学者の著作など参考にすればいい。しかし、何か自分の行動につなげたいならば、遠くの馴染みのない概念や言葉をがんばって取り寄せるよりも、身近な日常にある言葉で捉えていく方が意味がある。遠くの言葉を知ってることよりも、普段やってることに価値がある。だから特に曖昧な横文字というのは、子供でもわかる言葉に置き換えていこう。そして今この瞬間から「人を嫌いにならない」という「実践」をはじめてみよう。これ相当な人間力の訓練になるから。僕たちは思っている以上に人を好き嫌いでやたらめったら判断していることに気づく。しかも無駄に他者に同意を求めたがる。そんなこともうやめようぜ。自分の価値を落とすだけだよ。そう思ってまずは僕自身取り組んでいるダイバーシティ・トレーニングが「人を嫌いにならない」というシンプルな実践。

 

時代は成熟社会だから、ものごとは必然的に複雑化、多様化していく。その度合いは今後もますます深まるだろう。ダイバーシティはもはやみんなの当たり前になる。

それらを今、大上段から語り始める前に、1つ大切なことを胸に手を当てて考えたい。

 

「あなたのたった一人のパートナーを幸せにしているか?」ってことを。

一番身近なのは夫婦だよね。夫婦は元来赤の他人であり、結婚をし、共同生活をしているものの、価値観が様々違ったりする。そこを歩み寄り、受け入れ、折り合いをつけながらチームワークを発揮する最小単位といえる。社会の情勢を語り出す前に、まずは目の前の夫や妻を幸せにできているのか、自分は?という問いって大事なんじゃないだろうか。

多様性の本質とは、個の尊重であり、自分と他者の違いを受け入れることであり他者を活かしているか、とするならば、現実に目の前にいる相手を活かせているかを省みること。もし活かせていないならば何か分かっていないこと、受け入れていないことがあるはず。そこを真摯に見つめることから始めよう。

 

大事なことだからもう一度、言うね。まずはたった一人の身近なパートナーを最大限幸せにすることを考えること。それがダイバーシティや多様性を本質的に理解することにつながるはずだから。

 

そう言いながら僕もまだまだ修行中です。人生をかけてやろうと思います。毎日がダイバーシティ・トレーニングなのです。以上真夜中のたわごとでした。

 

ダイバーシティを語る前に、よかったら参考にしてくださいね。