これが最後かもしれない。
郷里の母が孫の顔を見に来たついでに、京都、大阪、神戸と連れて歩いた。
京都の三年坂ではちょうど桜が咲き始め、多くの観光客は写真を撮っていた。
母ともきれいだね、なんて話しながら…
そこでふと思う。
僕の感じる「きれい」。
母の感じる「きれい」。
その価値や意味は全く違うのだろう。
ぼくにとっては毎年の恒例、今年もやって来たな程度。
しかし母にすれば齢75、あと何回桜を目にできるのだろうか、とカウントダウンしているのかもしれない。
ましてや京都の桜なんて、一生のうち見られるのはこれが最後だろう。
「これが最後かもしれない」という認識で見る美しさ、来年も再来年もやって来るという認識での美しさは、同じ桜を見ていても全く違う。
人生は有限なのだ。
ぼくらは明日も明後日も用意されているとどこか無意識に思っている。
でもそれは勝手な幻想。
一期一会。
人との出会いも同様だ。
これが最後かもしれない、と思えば精一杯、優しい言葉を選んで手渡そうと思う。
大切な人を素直に抱きしめられる。
それができないのは、どうせ明日も来るし、またあなたと会えると思うから。
人の認識力というのは、時間の有限性を日々意識することで磨かれる、のかもしれない。
ぼくはこの旅行中、生まれて初めて、母の手をマッサージした。
これまでの感謝の言葉を手渡しながら。
母よ、また旅行しようね。
明石海峡に沈む夕陽も最高でした。