KOMA NOTE

”軽やかな自己実現”の考え方や実践を3人子育中フリーランスのコンサルタントがつづります。

う、をあたえよう。

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ふと、【有(う)を与える】という禅の言葉を思い出しました。

 

 

我が子が、友達からパシリにされている。

「こうすればいい」

 

保育園に行きたくない!だってたのしくないもん!

「こうすればいい」

 

将来が不安で眠れない。

「ならこうすればいい」

 

昔からコンプレックスがいつも行動を邪魔する。

「ならこうすればいい」

 

 

日常は困りごとのオンパレード。
どうすればいいの、だらけ。
そして「こうすればいいよ」と他人もAIも即回答してしまう時代。

 

でもなんとなく情報を手にしたところで、その困りごとはなかなか消えないもの。

いつから世の中は「解決あせり社会」になったのだろうか。

 


言葉を選ばずに言えば、なんだかチープな教え魔がたくさんいる社会になっているように思います。

筆者もなまじコンサルタントとして生きています。
だから困りごとを聞くと悪気なくパン!と解決アドバイスをしてしまいがち、でした。それが価値、だと思っていたから。

 

 

最近、その解決モードの自分を手放しています。

 

 

すぐ解決っぽいことを言うのってどこか薄っぺらい(笑)。
コンサルタントが多用する「問題解決」って言葉に正直、心が踊らない。


なんかするのもされるのも息苦しくならないですか?
(これは筆者だけの感覚でしょうか・・)

 

 

その理由を考えてみました。

 

たぶん、正論だから。

正論って息苦しいのです。


だから、困りごとに、すぐ解決モードにならないようにしています。


スマホで調べたり、他人の知恵をすぐ借りない。

 


解決モードではなく、その困りごとに対して「有を与え」てみるのです。

 

悩み、困りごと、問題、嫌な奴、こどものおねしょ・・・すべてに、
「ああ、そうなんだ。(マル)」としてあげる。
その困りごとくん。そこに居ていいよ、としてあげるという考え方です。

 

うん、困った。
ああ、それでいいのだ。

そう思えるように生きる。

ラクで楽しいような気がするのです。

 

「困りごと→よっしゃ解決したろ!(せねば)」

 

この単純な結びつきではなく、

 

「困りごと→ 有を与える(いいよ、それで。マル) → → → あれ、なんだっけ、わすれた、まっいいか」

 

 

この感覚で最近はクライアントにも家族にも接しています。
解決という言葉すら捨てて。

 

今のところ、困ったことはひとつも起きていません。

 

「これでいいのだ。」
本当の天才はバカボンよりも、有を与えていたバカボンのパパだったのかもしれないですね。

 

どうぞご参考までに。