う、をあたえよう。
ふと、【有(う)を与える】という禅の言葉を思い出しました。
我が子が、友達からパシリにされている。
「こうすればいい」
保育園に行きたくない!だってたのしくないもん!
「こうすればいい」
将来が不安で眠れない。
「ならこうすればいい」
昔からコンプレックスがいつも行動を邪魔する。
「ならこうすればいい」
日常は困りごとのオンパレード。
どうすればいいの、だらけ。
そして「こうすればいいよ」と他人もAIも即回答してしまう時代。
でもなんとなく情報を手にしたところで、その困りごとはなかなか消えないもの。
いつから世の中は「解決あせり社会」になったのだろうか。
言葉を選ばずに言えば、なんだかチープな教え魔がたくさんいる社会になっているように思います。
筆者もなまじコンサルタントとして生きています。
だから困りごとを聞くと悪気なくパン!と解決アドバイスをしてしまいがち、でした。それが価値、だと思っていたから。
最近、その解決モードの自分を手放しています。
すぐ解決っぽいことを言うのってどこか薄っぺらい(笑)。
コンサルタントが多用する「問題解決」って言葉に正直、心が踊らない。
なんかするのもされるのも息苦しくならないですか?
(これは筆者だけの感覚でしょうか・・)
その理由を考えてみました。
たぶん、正論だから。
正論って息苦しいのです。
だから、困りごとに、すぐ解決モードにならないようにしています。
スマホで調べたり、他人の知恵をすぐ借りない。
解決モードではなく、その困りごとに対して「有を与え」てみるのです。
悩み、困りごと、問題、嫌な奴、こどものおねしょ・・・すべてに、
「ああ、そうなんだ。(マル)」としてあげる。
その困りごとくん。そこに居ていいよ、としてあげるという考え方です。
うん、困った。
ああ、それでいいのだ。
そう思えるように生きる。
ラクで楽しいような気がするのです。
「困りごと→よっしゃ解決したろ!(せねば)」
この単純な結びつきではなく、
「困りごと→ 有を与える(いいよ、それで。マル) → → → あれ、なんだっけ、わすれた、まっいいか」
この感覚で最近はクライアントにも家族にも接しています。
解決という言葉すら捨てて。
今のところ、困ったことはひとつも起きていません。
「これでいいのだ。」
本当の天才はバカボンよりも、有を与えていたバカボンのパパだったのかもしれないですね。
どうぞご参考までに。