KOMA NOTE

”軽やかにシンプルに生きていく”考え方や実践をフリーランスの人材育成クリエイターがつづります。

自己嫌悪というスイッチ。

人材開発の仕事をするプロとして、こんな内容はあまりおおっぴらに言っちゃいけないことなのかもしれない。でも、もしかしたらいつか、あなたの参考になるかもしれない。そう感じたので、記そうと思う。

 

「自己嫌悪になったことってありますか?」

僕は40数年生きてきた中で、何度か強烈な自己嫌悪に陥った時期がある。実はここ最近がそうだった。久々にそれはやってきた。疲れが抜けなくて体調がすぐれないという状態でもあったが、妙にイライラし、子供に腹を立てたり、妻と言い合いをしてしまうことがあった。ついには先日の朝、あることでカッとなり小1になったばかりの長男の胸ぐらを掴んで、声を荒げて言い聞かせた。その勢いで長男の胸に爪が引っかかって傷をつけてしまった。しかしその場では自分を正当化し、子供に説教した。

 

その日は休日であったが、僕は腹の底から自己嫌悪の1日だった。長男はケロッとしていつもどうり、公園で一緒に遊んだり、ご飯を食べた。いつもの休日の過ごし方だった。でも僕の心の中は、ざわついたままだった。

夜になり、僕は眠れなくて家族が寝静まった深夜にひとり、ノートにモヤモヤな心情を吐き出すことをした。いつもセミナー参加者にお伝えするあのやり方だ。しかし、いつもと違いなかなかペンが進まなかった。ようやくつらつら感情の断片を書き出しながら、頭が整理されてきたのは次のようなことだった。

 

・親は子供に対して、威張って怒ってどなってもいい?

・親はえらいものだ。子供は親の言うことを聞くものだ。親が口うるさく言わなければ、この子は育たない?

・私がこの子に教え込まないと、この子はまともな子にならない?

 

 

・・・違う。僕は完全に間違っている。

 

本当は、親が子供を育てているのではなくて、この子から親が育てていただいているのだ。

 

この子が何をしても、どんな状態でも親が絶対に腹を立てない、怒らない、声を荒げない、苛つかない、という人格を身につけるために、この子がいる。言ってみればその訓練のためにこの子は我が夫婦のもとにきてくれたのではないか。そんな内なる声が聞こえてきたのです。

子供に怒鳴ってもいい、イライラしてもいいと思っていたのは、親である僕の完全なる思い込みであり、勘違い。ただ自分が未熟なだけ。そこを自己正当化しちゃいけないのだ。それは僕の弱さに過ぎない。その弱さの上で教育論、理想論、観念論を子供に教え込む(むしろ押し付ける)という方法論は全く役に立たず、意味がない。この子が言うことを聞き動いた時というのを振り返れば、その子自身に私が喜んだ時、感謝した時、誉めた時に限っていたはず。怒りで動かしたことが長続きした試しはない。そうだそうだった、と大切なことが次々浮かんできた。

 

「自己嫌悪というスイッチ」は、カンタンに自分の生き方を変えてくれる。

これまでもそうだった。自己嫌悪とはすっかり忘れていた大切なことを教えてくれるメッセンジャーのような存在だ。僕はこの日の深夜に心に決め、ノートに書いた。

「今後子供に対してどんなときでも怒らない、いばらない、怒鳴らない、声を荒げない」ということを。もしこの実践を24時間、365日できるようになったら・・・こんな人をたぶん人格者と呼ぶのだろう。そして、そんな親に対応するような子供になるのだろう。僕はまだまだ未熟者だ。だから僕自身がもっと成長しようと思う。

先人が言ってきたように、きっと親はいなくても子は育つのだろう。もしかしたらこの子の人格形成にとって親の存在というのは実はあまり関係ないのかもしれない。それぐらいの考え方で、ひたすら「実践者の父」になってやろうと思う。

 

自己嫌悪というスイッチがカチっと入ると、あとは勝手に心地よい方向に行くものだ。なぜなら行動の選択が自然と変わるから。

僕は次の日、我が子の登校に途中まで一緒に歩きながら、傷つけたことを謝った。そして、「パパはあの日、自分のことがすごく嫌いになったんだ」と正直に打ち明け、昨夜思ったことや決意したことを息子に話してみた。息子は、ぽか〜んと黙って聞いていた。特に言葉はなかった(心なしか表情が明るくなったように思えたけど)。

 

たぶんいいのだ、これで。