これが最後かもしれない。
郷里の母が孫の顔を見に来たついでに、京都、大阪、神戸と連れて歩いた。
京都の三年坂ではちょうど桜が咲き始め、多くの観光客は写真を撮っていた。
母ともきれいだね、なんて話しながら…
そこでふと思う。
僕の感じる「きれい」。
母の感じる「きれい」。
その価値や意味は全く違うのだろう。
ぼくにとっては毎年の恒例、今年もやって来たな程度。
しかし母にすれば齢75、あと何回桜を目にできるのだろうか、とカウントダウンしているのかもしれない。
ましてや京都の桜なんて、一生のうち見られるのはこれが最後だろう。
「これが最後かもしれない」という認識で見る美しさ、来年も再来年もやって来るという認識での美しさは、同じ桜を見ていても全く違う。
人生は有限なのだ。
ぼくらは明日も明後日も用意されているとどこか無意識に思っている。
でもそれは勝手な幻想。
一期一会。
人との出会いも同様だ。
これが最後かもしれない、と思えば精一杯、優しい言葉を選んで手渡そうと思う。
大切な人を素直に抱きしめられる。
それができないのは、どうせ明日も来るし、またあなたと会えると思うから。
人の認識力というのは、時間の有限性を日々意識することで磨かれる、のかもしれない。
ぼくはこの旅行中、生まれて初めて、母の手をマッサージした。
これまでの感謝の言葉を手渡しながら。
母よ、また旅行しようね。
明石海峡に沈む夕陽も最高でした。
新たな投資、はじめる。
僕のような零細自営業者は、何の保証もサポートもない。
ゆえに日頃から自己防衛策として様々なリスクヘッジや投資を考え、実行している。
つもりだったが・・・。
2週間前、ダイニングテーブルに1冊の本がポンと置かれていた。
妻が勤務先の社長からもらってきたのだと。(なぜこの本をもらったのか、理由は未だ謎)
ふぅーんと何気なくパラっと開いたページの1行に目が止まった。
『史上最高のカラダに出会える』
出会えるものなら会ってみたい・・・。
素直に言えば、40歳を越えてから、日々史上”最悪”なカラダになりつつあるのは認めざるをえない。
髪はまだフサフサだが、お腹はちょっとだらしない。
子供とサッカーしようものなら膝がガクガク言う。
久々に仕事でネクタイを締めようとしてシャツの第一ボタンが首に食い込んできたのにはさすがにショックだった。
鏡に映る自分のボディ、情けねぇ。
でも、老いにはあらがえないのよ、オヤジだもん、あぁ今夜もビールがうまいのさ!
そんな自己正当化の反面、このまま妥協の坂を下り始めるのかお前は、という心の声も聞こえる日々。
春だ。よし、一丁やってやろう。
これは新たな自分への投資なのだ。
いうならば貯金ではなく、「貯筋」。
仮想通貨より、自分の筋肉に投資しよう。
まだスタートしてから2週。
今朝もスクワットから始まった。
やるぜやるぜ貯筋習慣。
追伸、
次にお会いした際、もしかしたら余談やたとえに「筋肉」メタファーが多々登場するかもしれません。
すでにいくつか頭に思い浮かんでおります。
華麗にスルーして構いませんので。
あー、あそんだ!
ゴールを達成していくということは、
今日の行動がゴールとつながっている状態をつくることとイコールだ。
だから大事なことは、
「がんばること」じゃなくて、
「そのゴールにつながることに時間を使うこと」
ゴールとつながりが強い行動こそが、今日の優先事項になる。
この自覚こそが、自分の立ち位置をつくっていくといってもいい。
徳島県にある月見ヶ丘海浜公園。
久しぶりに家族で2日間あそんだ。
だだっ広い公園を子供たちと走り回った。
たくさん笑って、
大きな海や空におどろいて
たのしかった。
人生は有限だ。人生の最後に何を思いたいだろう。
スマホでビットコインの上がり下がりをウォッチすることや、やたらSNSを気にすることに忙しかったなぁという人生よりも、家族とのたのしい出来事や感動をつくっていきたいよね。
我が子たちともっとじっくり深い話なんかしてみたい。
年老いてからも思い出して笑い合いたい。
帰りの車の中で、ぐっすり眠る子供たちをミラー越しに見ながら、
ぼくは、あらためてそう思ったよ。
ありのままに。
プロジェクトは、始まりがあって終わりがある。
年明けから、大阪から東京の渋谷に計4回通ったプロジェクトが一段落ついた。
初回は渋谷に雪が降り、最終回はコート無しでも十分な暖かさだった。
ある参加者からは、「人生に必要な考え方だった」という感想をいただいた。
ある参加者には、「もっと続けてほしい」という要望をもらえた。
ある参加者は、「私の地方に来てやってくれないか」という申し出をしてくれた。
ほんとうにありがたくて、涙が出そうになった。
当のぼくは毎回、たのしかった。
仕事柄、常に出会いがあって終わりがある。
出会いは、いつも自分の可能性に期待する。
そして、別れのときには、自分の課題を知る。
いつもその繰り返しだ。そういえばそんな季節でもある。
果たして、ぼくはみなさんの前提を書き換えることができただろうか。
帰りの新幹線の中で、「あれもできたな、こんな話もしたかった・・・」
振り返ると反省点ばかりだった。
おそらく会うことはないと思うけど、ノートにその反省点と次なるアイデアは書いておいた。もし会う機会があればまた一緒に考えようね。
PS、
がんばってもいいし、がんばらなくてもいい。
どうぞ、お好きなように楽しい方を選択していきましょう。
これがぼくのキャリアに対するスタンスです。
自分を否定することなく、ありのままに。
ただ、有を与える。
教えないコンサルタントになろう。
目指すは、何も言わないで来て、ただ帰る人。
なのに、相手は勝手にやる気になり次々結果を変えていくとしたら・・・
この5年間、試行し続けてなんとなくこのスタイルに近づいてきた感はある。
まだまだ反省多いけど。
ほんとうに何もしないのか、というと実はたった1つだけ意識してやることがある。
なかなか難しい。いまだ修練の真っ最中だ。
それは、徹底した肯定。
突き詰めると、あらゆる教育の基本はここにある気がする。
ありのままその状態や存在を受容する。
「それ、ありだよね、いいね。」と言ってあげる存在。
ちなみにあなたの周りに、そんな存在はいる?
批判してくれる人や、無関心の人はたくさんいるだろう。
でも、あなたの存在自体に無条件で丸をつけてくれる存在は、
意外に少ないのではないだろうか。
禅の世界には「有を与える」という言葉があるという。
ここにいていいんだよ。そんな意味だと解釈している。
企業組織で働く方々の活気を生み出す際に、その下支えという仕事をしているぼくが大切にしていること。
それは「徹底した肯定意識であり、有を与え続けること」に他ならない。
このことに気がつくと、日々の振り返りポイントは、
「今日は相手に丸をつけられたのかどうか」が基準になってくる。
人間としての器を試される修練だけど、やってみる価値はあなたにもある。
(そう思って、この地味ブログに書きました)
ちなみに。
相手だけでなく、まずはじぶんの歩いてきた道も、全肯定しよう。
そう、すべて。
たった一行の下支え。
不覚にも僕はある一行で涙してしまいました。
『毎日読みたい365日の広告コピー』
ページを折り曲げすぎてしまうほど、心に響くコピーが盛りだくさんです。
たとえば、、
ふだんを変える。それがいちばん人生を変える。
経験を積んだ職人ほど、まだまだと言う。
美人よりも美しい人になってください。
はみ出さないと、生み出せない。
やらない理由を探すのがうまくなると、成長は止まる。
親になってみたら、「親バカでいいや」と思ってしまいました。
やるか、やらされるか。
問題は、問題意識がないことでした。
帰省のひとはすぐにわかる。なんでもない景色を見る目がやさしい。
かわいい孫には背を向けよう。
先生は「がんばろう」を言い換える名人であってほしい。
困ってからではなく、困る前でも相談できるのが上司だ。
退屈なのは、世の中か、自分か。
たった一人の「いいね」があれば、本当は、いいのかもしれない。
生まれ変わるなら、生きているうちに。
などなど。
その時々の心理状態によって共感する一行は変わるでしょう。
なんども読み返したいと思います。
広告コピーのように、たった一行の言葉との出会いが、その時の自分の心の下支えになることがある。たった一行だけれども、そこにある言葉から想像が湧いてくることがあります。
ぼくのように涙したり。
言葉による心のマッサージを受けている、そんな感覚になる一冊でした。
読書が苦手で、いつも僕から活字に触れるように言われているあなたにおすすめかもしれません。
なにもしないこと。
昨日は、東京である企業のプロジェクトミーティングに参加していた。
ぼくの役割は、ファシリテーション。特になにもせずボケ〜と、いや優しい眼差しで皆さんの議論を眺めておりました。
そもそも、ふぁしりてーしょんって?
「その場が活性化するように、仕切り・進行すること」。
コンサルタントだろうがファシリテーターだろうが、要するに人を指導する立場の人間は”意思をもって”自分の仕事を定義しておく必要がある。
そう、意思をもってぼくは「なにもしなかった」。
この仕事はサラリーマン時代から数えると17年目に入る。
幸いにもなんとか続けてこられたわけだが、振り返ると、仕事の定義は時代によって変わってきた。
以前は知識を貪欲に集め、それを提供するのがこの仕事だと思っていた。
要するに、答えを教える人、それがコンサルタントだぜ、と。
川を渡れない人がいれば、橋をかけてあげる。
一度橋をかけると、感謝される。なんだか忙しくて気分がいい。
若造なのに「先生」なんて言われたりする。
でも、そこに落とし穴がある。
こっちもあっちもかけてくれ。壊れたからまたかけてくれ、、、になってくる。
あれあれ?なんでこれもあれも代わりにぼくがやっているんだろう・・
そんな疑問がふつふつ湧いてくる。
ある時、気がつく。
やってあげるとやってあげるだけ、実は助けてもらわないと生きていけない人を育ててしまう。ぼくは人を依存させる手伝いをしているのか、と。
独立してから、ぼくのコンサルタント像は変わった。
もし壁があれば、その壁をとってあげるのではなく、その壁をのりこえられる人を育てないと意味がない。
極端に言えば、いかに育てないか、本人が育つように仕向けられるかがコンサルティングのテーマだ。
いまのぼくのコンサルタントとしてのゴールは、
「なにも、しない。そんな存在。」だ。
もうちょっと見守る。
環境に目を配る。
矯正しない。
程よい距離感や幅というのを意識する。
あくまで本人がコツや気づきを掴めるようにするため。
一見、消極的に見えるけどこれがプロ。
相手の中から引き出されること・タイミングを邪魔しないことが一番の仕事。
じゃあ例えば会議中、落ちているゴミでも拾っとけというのか?
「はい、その通り。」
私のようなコンサルタントしかり管理職といった指導者という立場にいる人の、隠れた問題は、「教えすぎ」という問題だったりする。
コツなんて個人的なもの。答えっぽいことなんて変化の早い今、瞬間で風化する。
結局、本人がその気になって掴んでいくしかない。
与えることで、自分に依存させ悦に浸ってはいけないのだ。
もしも状況を自分の力で切り開き、たくましく理想の現実を創っていく人を育てたいなら、決して相手の問題を解決してはならない。
だから、「なにもしない」という基本。(これは子育ても同じかもしれない)
でも、本当になにもしないなら、あなたの存在価値って?
実はたった1つだけ、することがある。
続きはまた今度。
参加者から地元で買ってきたお菓子をどうぞ、と。物欲しそうに見えたのだろうか…
ありがとうございました。美味しかったです。